昭和51年11月18日 月次祭 大坪かよこ
信心を頂いて、その信心の真を現わしていくということが、信心でございます。
信心の真を現わして行くということ。先ほど前講に池田先生がお話を致しておりました。ほんとに私は、あの信心ばかりは、内容がなからなければお話はできません。
しかもそれが、いつもとか、昔のではなくてね、日々がさらの心の中に有難い、または勿体ないという感情が頂ける。そのまた有難い勿体ないにおかげが伴うてくる。
ですからそういう内容が段々ありませんと、中々お話し上手だけではお話はでけません。けれども私は本当に有難いと思いましたことは、赤裸々にお話がでけない。最近親先生が仰せられます心行一つでと言われる、その心行が密にでけておれば、有難いのですけれども、努めておっても、努めておっても出来たようであってでけていない。
ま、そこの辺のお粗末なところに自分ながら、まあ、いうならば日々の信心の稽古の中に有難かったり有り難くなかったり、辟易とするものを感じておる。そこへ今日あなたのお話の当番ですよと言われたわけです。
しかし私は、ほんとにあの信心の有り難いのはね、でけてもいないことをでけたかのようにお話をするように、でけていないことを赤裸々にみなさんに聞いて頂いて、もう出来てない時にはどうにもできないんだという実感をま、一口ではありましたけれども、伝えておりましてかえって私は有難いものを感じました。
皆さんが拍手せんから私が一番先に拍手しました。ね、信心はそれです。
それが真を現わしていくのです。でけてもいないことをでけたかのように、たとえばどんなにお話が上手であっても、お話をして行くということは、これは真に欠けておるわけですから、おかげになりません。
自分もおかげ頂きません、またそれで人もおかげを頂くはずもありません。
お道の教師をお取り立て頂いて、ほんとに世の中の難儀な氏子が取次助けられていくことのために、信心に日々専念させて頂いておるけれども、中々、自分の心の中に、ま、これで良いという日はある訳はありませんけれども、ね、ほんとに足りないことばっかりにあらためて取り組めば取り組む程思うのでございます。
今日もお話の中に最近合楽の信心が、完璧の中に達したと言われるけれども、という話をしておりましたことは、これは訂正であります。
完璧に域に達したのではなく、ね、完璧に域に入ったというのです。
これからの信心は、もう一生涯、あの世までも限りなく続けられていくことでしょう。
日田の堀尾先生の有名なお言葉ではないですけれども、未完成のまま永遠に、というお言葉があります。素晴らしいお言葉です。ね、いうならば、合楽の信心は、おそらくこれから未完成のまま永遠に限りなく進められていくことでしょう。
それがね、これが本当だと、いうなら完璧の域に達するのではなくて、完璧の域に入ったというのです。
だからこれだけのことだけは、お互いが合楽に御縁を頂くのは、マスターしとかなければいけない。
そしてこれから先は、日々の精進で生涯掛って、それを言葉を変えると、生神金光大神の境地を目指して、取り進められていくのです。
ね、今までは、ほんとにま、これもほんと、これがほんととこういう、真の信心とはというふうに言うたり思うたりして来ておったけれども欠けておることにあらためて、驚かしてもろうております。
完璧の域と思われるところまで信心が、信心というものは、そういうほんとのことが分ってほんとのことが行じられるようになると、も、ほんとのおかげが伴のうてくるから、もうこれはどうにも仕方がない。
いかにほんなこつだ、ほんなこつだというとっても、おかげがほんなことになって行かなかったらそりゃほんなもんじゃないです。私はこの完璧な信心という、この前の月次祭に皆さんに初めて発表さしてもらった。
その三、四日ぐらい前にそのことを頂いて、そのことを毎日繰り返し聞いて頂いていておるわけでございます。
そういう信心に私が気付かせてもらい、そういう信心にならせて頂きましたら、も、確かに、もう、何て言うですかね、おかげがこう水も漏らさんと言ったような感じに毎日毎日が奇跡の連続です。
この前のお月次祭には、私がここへお祭り前に座らせて頂く十分か十五分間かの間に奇跡的なおかげを頂いたお礼のお届を一番初めに聞いて頂いて、お話しになったですね。
ね、覚えておられるでしょう。ね、というようにです、もうほんとに新たな難儀な方達がお参りをして来る、その新たな難儀な、難儀を感じておる人達が、いやー、こりゃもう合楽に御縁を頂いた、これからは私のほんとの幸せが開けてくるぞといったような希望が与えられるほどしのおかげを頂いております。
今朝からのお届けでございますが、日田から坂本さんたちがご夫婦で熱心にお参りになります。
もうこの頃はもう信心が有難うして有難うして、自分の周辺を見回してみるとあそこにも難儀な人がある、あすこにももう医者も見離したといったような人があるのに驚くぐらいである。それを一人一人実意丁寧、も、お取次ぎを願うては、お導きに行かれ、そういう神様がござるならどうぞ私一辺連れて参ってくれというふうにして、毎日お参りがあっております。
これは昨日、一昨日の話。今朝からその坂本さんがお届けをされるのを聞かせて頂いて驚くのです。
もう遠い、坂本さんの親戚にあたられるところに行かれたところが、娘さんがまだ二十六歳、それが卵巣癌でもう開いて見たところが、もう転移しておってから、も、手の施しようがない。大したその自覚症状がないそうですから、癌ていうことは本人には言うてないから、もう何日すれば退院がでけるとか、まあ、その、楽しい退院してからのことばっかり言われる。
それを親御さんが聞かれる親の身としてはです、もういく日も持てないと医者から言われ、宣言されておるわけです。死刑の宣告をいついつはというように受けておるのですから、親が娘さんがはしゃがれればはしゃがれるほどに切ないわけです。
そこへ坂本さんのお話を頂いて、そんならぜひ自分たち夫婦を連れて行ってくれというてお参りになったのが昨日、一昨日でした。
一昨日、先一昨日だったでしょうか。お話を聞きますともうほんとに両親の、その子供のそうした本人は癌であることも、また、たいして症状も感じないのですから、ところがその日はなんか気分が良いからというてその散歩に出られたなりに、あの人事不詳になって倒れられた。
もうすでにそういう恐ろしい病気症状が現れてきたわけです。
ね、そこへ坂本さんのお導き頂いて、お参りをして来て一生懸命に、も、ほんとにこれが一生懸命だろうと思う、その態度でおすがりになりました。
お届けになられました。
私は神様にお届をさせて頂きますと、ますます重体になって行くということを頂くんです。けれどももういよいよ重体になって、もう人間心で言うたら難しい、駄目だという、というようなとこになっても決して力を落とすな。そこで力を緩めるな。あんた方夫婦が一生懸命に山の坂を越えて重い荷物を引っ張って登っておるように、なところだ。その後から、坂本さんが後ろから押してさし上げるといったような、あの、信心で、ね、これからも、もう行かん、もう駄目だと言われるような状態になっても、そこで力を緩めることなしにおかげを頂いて行かなければいけない、というような、あの私はそういうことをほんとに確信を持って申しました。
そしたらすぐその次に、やはりあの、森山恵子さんという、これもやっぱ日田からあの参ってくる方ですけれども、すぐ電話でしたけれどもお届けがあった。
してそん時にこりゃおかげ頂くなと思うたです。森という字は木を三つ書いてあるでしょう。本人たち夫婦、それに坂本さんが入って三つになるでしょう。
けいこというのが同じ名前なんです。その次に、というようにその次にお参りしてきた人も森山というて、これは日田の駅の前の、日田というレストランを経営しておられる方もこれはやっぱり坂本さんのお導きで参って来よります。
その方達が夫婦でお参りして来たんですけれども、その、えーっと黒なんとか言いましたね。あ、黒木さんか、黒木けい子さんじゃんね。え、黒木けい子さんじゃ。ね、それがです、今朝から坂本さん、お参りして見えて、もう夫婦がもう一生懸命おすがりをさせて頂いて、もうほんとに、ま、それこそ溺れる時にはわらをもつかむような思いでしたけれども、お参りをしてお届けをさせて頂いて、御理解を頂いておると、こりゃ、娘も助かることがでけるぞ、といったようなほのかな光が見え出してきた。
そこまで帰りがけにお届を、お礼をもう喜びいっぱいで帰られておる時に、お父さんがそのお母さんに向かって、あら、お前は今日は親先生が前では座ってからお前は御祈念しよったじゃないか。あら、もうそれこそ、自分もびっくりしておる。もう長年リュウマチで足が座れなかったんです。
もう一生懸命ちゃほんとに恐ろしいですね。もう一生懸命娘のことで一心におすがりしておるうちに、自分にも気が付かないようにここでは座っておった。座って御祈念をしておった。帰りがけに主人から、お前は今日は座っておったじゃないかと言われて、あら―、というて、ありが信心があるものならば、もうその場でひっくり返して来てお礼を言うところでしょうけれども、ね、まだそこは信心が分らんから、ちょいと不思議なこつじゃあると言うて自動車ん中で言いくらしながら、帰られたというお届けを今朝坂本さんからありました。
ね、素晴らしいことですね。神様は願わないことでも、一心を持ってくるときにもう既に、こういう不思議なおかげも受けられるぞ、さあ娘のことにも力を落とさず本気で頑張れよという神様の声をそこに聞くような思いが致します。
これもやっぱり坂本さんのお導きで、前日にお参りしてきた、いま日田のレストランの大将夫婦ですけれども、昨日、親子三人でお礼に出て来ました。
もう、これも大変な病気を手術した、ところが食べ物が入ると体が半身がうずき走ってもうどうにもこうにもけでないという病気。医者に言うても立派に手術は終わっとるし、でけとるし、どこからそういう痛みがあるやら分から無いという苦しみ抜いておられるところを坂本さんの御主人の後輩だというので、お話しにお出でられて、そげんところがあるなら一辺の参りを連れて参ってくれということで、一昨日でしたか、参ってきました。
もうほんとにま、難儀そのもののような感じの様相をしておられました。
ね、その帰りの車の中で坂本さんに夫婦が言われることがです、これは坂本さん私たちも助かることがでける、初めて合楽の親先生という方にお目にかかってから、もう始めてああ言う雰囲気の中に、ああいう形にお会いして、しかも合楽の親先生といや、もう奥の間の方におってお取次ぎを何べんも頂いて頂かんならん方かと思いよったら、いうならこの店先に出て、私どものような者のためにお取次ぎをして下さり、お話をして下さったということが、もうほんとに有難うして有難うしてこたえんようなふうで、坂本さんにお話しになったということです。
帰られた、帰られたところがいつもの痛みがよりもひどく起こったんです。
ね、それでもやはり金光様を唱えることを覚えましたから、金光さま金光様でおかげを頂いて、それからぐっすり休ませて頂いて、朝目が覚めた時にはもうすっきりしておった。昨日は、夕方お礼に出て来ましたが、ただ今までもう痛もうともせんようなおかげを頂いておるというてお礼のお届けがございました。
ね、そういうようなわけなんです。今日も久留米の佐田さんの兄弟が、宮崎におりますが、昨日一昨日電話がかかって来た。隣の子供が小児ぜんそくで、いまにも息が切れるように苦しんでおる。
もうそれこそもう親はもうおろおろしとる。それでならとにかく、あの私金光様にお電話をかけさせて頂くから、というので、お電話をかけてきた。すぐ御神米を頂かせろというたらすぐ御神米を頂いだかせて頂いたら、嘘のようにおかげを頂いて、今日は学校へやらしていただいとるというてお礼の電話がかかって来ました。
というようなね、おかげがただいま申します、合楽の信心が、ね、完璧の域に入ったというたとたんに、はあ、こういうとこが気が付いてなかった、こうういとこが間違ごうておったことに気付かせて頂いて、その信心にならせて頂いたら、まだ今日もいっぱいあるんです、そのお届けが、ね、そういういうならばおかげを受けてそれを受け漏らさんで済むような神様の働きが、今、合楽全体の上に起きておるということであります。
そこで皆さんも、ならそういう信心をいよいよ一通り分らせてもらい、それに向かって精進する。池田先生が申しておりますように、もう合楽の信心は表行じゃない、心行一筋だ。心行、心行といや、限りない心行がある。それでも実際に取り組んでみると分らんことがあったりするというのです。
昨日も私は午後の奉仕を終ってから、体が寒気がする。それで布団を、毛布を普通の、普通のあれからまた、毛布やら布団やら着せて頂いた。
もう体の節々が痛んで、もうどうにもできない。もう三時の研修は今日は御無礼するからというてお広前の方に言うて来てくれと、家内に申さなければならないほどしでございました。
そして休みながら、思わせて頂いたことなんですけれども、神様が心行心行と仰せられるのだけれど、こういう場合の心行はどういうことであろうかと、ところが今まで、あの布団を、布団を着ておる上にまた布団やら毛布やら来たもんですからいよいよ重たいわけです。ね、は、これはあの私の部屋には暖房が入るようになってる。
昨日一昨日末永先生が、寒いから暖房入れましょうかとこう言う。まあ待ちなさい待ちなさい、十二月ぐらいまで修行さしてもらわにゃ、十二月一日から焚こう。それまで寒いなら、ストーブを入れときなさい。は、四つも五つもストーブ入れとるわけです。
それで私は暖房を入れさせませんでした。そのことをふっと思わせて頂いて、はたしてこれが心行につながることであろうか、なるほど今までならばです、ね、一つの信心の節度として、たとえば寒かったちゃ、十一月いっぱいまでぐらいまでは暖房入れんで修行さしてもらおう、十二月一日から暖房入れようと、これはいかにもほんとのことのようであるけれども、これは本当のことのようではないように思うた。
そこで家内に暖房を入れさせましたから、布団も軽くして休むことがでけた。
そしたらです、もうそれこそ嘘のように今まで肩が痛かった、苦しかったのが、何かこう抜けるように、この爽快になった。そこへ末永先生が入って参りましてから、いま日田からこうこうで、始めての方がお参りしておるというから、ならすぐお広前出ろうというてお取次ぎをさせてもろうて、いつものように研修させて頂いて、それっきりすっきり体がしてるんです。ね、だから暖房を入れることが贅沢だと、十二月までは、とこう頑張ることがね、行のように思うとったものがまだのこっとるわけです。心行とはそういうものではない、神様がそのために、ね、先月なんか、去年の今月なんかは、で、油代が五十二万円月々払っとります。平均で、だからその五十二万が、さあ、五十二万もの暖房のあれがかかるから、ね、総代さんの相談せんならんというようなことならば暖房入れたらいかんでしょう。
それこそ神様が、ね、誰に相談することもいらんようにです、暖房の油代は払うて下さる、お繰り合わせ頂いておるのだから、寒いなら暖房入れたが良い、というて、必要でないところに暖房を入れる必要もない。そこで私は、自分の部屋にも暖房を入れ、ここもすぐ暖房を入れさせました。
そしたら若先生が、あの奥のストーブが二台、お供えが来とりますよち言う。それなら今度それにしなさい。信心とはそういうもんです。
ね、いいやもう暖房ち言うたけん、もう暖房でよか、ストーブはいらんというようなことではない。そこへほんとにあの、非常にあの熱の高い二台のストーブがお供え来とるから、そんならしばらくそれでおかあげを頂こうかということに今、なっております。
朝晩だけ暖房入れておるわけです。ね、心行というのは、そんなにね、私どもがこう、あの、十二月まで入れない、そういうことじゃないようです。
私はいつも久富先生とお風呂頂くんですけれども、先生は大変熱がりです、私はぬるがりの方です。だから初めの間は、私にお付き合いして頂いてぬるめに入って頂いて、そから、全身あろうてもうろうて、私が上がる。後に久富先生がゆっくり入りますから、私が熱い湯をひねって入れるのはわたくしです。
ちょうど上がってる頃が、もう、あの暗くなるかならんか、私どんが時までは、まあ、電気は付けんでもよいです。ちょうど私が上がる頃は、もう暗くなるか、もう暗くなろうとする頃ですから、電気を付けるのはいつも私です。
心行とはそれなんです。ね、私と一緒に付きおうてぬるかお風呂に入っとる、後は先生が気持よう熱い風呂に入られるようにひねってくるのは私、ね、ね、後も、赤々と気持の良いお風呂に入られるようにと思うて上がりがけに私は電気を中にスイッチを入れてくるのは私。
ね、あっじゃ、もやもやするようにあるという人すら世の中にはありますよね。
ありが腹立つ、もやもやすると、も、口では言えんけれども、することで、ほんに戸をがちゃんと閉めたりしてから、何を腹かいてござるじゃろうかちゅうごたあるとがありましょうが、これはもう全然信心がでけとらんとです。
ね、今日もある嫁さんが参ってきました。昨日お母さんとちっとばっかりやりやりやったごたある。お母さんもなかなかワンマンなんです。ほいでもう、ぎゃふんと言われた。
というわけです、したら今朝方からお夢を頂いた。御神飯をお供えさせて頂こうと思うた。御神飯帰器がないから、下へ、勝手へ座らせて頂いたら、もういつどんご神飯を盛ったじゃ分らんような、いわばつうばってしもう取るごとある御神飯、つうか、御神飯のお供え、盛ったまま勝手に置いてあったというのです。
も、大変なことですね。神様がままになってござらんけん、こっちが淋しゅうなったり、いらいらしてくるとですよ。ね、それから二階の神様の部屋にあがらして頂いたところが、もうてんで、こんな厚い布団に紫のごとあるけれど実際は紫ではない、もう何ともかんとも、いやな言われんような感じの布団に寝てそのお母さんがふかぶかとした布団に神様の前に寝てござるというとこであった。というお知らせを頂いたというお届けがございました。
私どもが日々、大祓いい心行をさせて頂くのも、また心行に本気で取り組ませて頂くのも、ね、それはとりもなおさず神様が生き生きとして見える。自分の心なる神様が有り難いという一念に燃えてきなさる。ね、昨日もさっき申しました日田のレストランの方達が、もうとにかくもうほんとに始めておかげ頂いて有難うして有難うしてと言うて、坂本さんにお話しになられた。こんな有難いいうならお神様とか人に会ったことは始めてというて帰られた。そのお届けを私は聞かせて頂いておる時に頂くとが、あのごんべが種まきちゅうがある。ね、若い方は知らんでしょう。ごんべが種蒔きゃ、カラスが付くじる、という歌があります。
私は今朝から、昼の研修の時にその話をしよったら、西岡先生は、もう私と友達ぐらいじゃけしっちゃると思うたら、ああ、金毘羅舟船でしょうちゅうた。
なんの、金毘羅舟船じゃろうか、あんた、金毘羅舟船はしゅらしゅしゅじゃねえの、ごんべが種まきちゅうのは、そげな、ごんべが種蒔きゃ、カラスがほじくるという、ま、どじょうすくいのあれは、あの、前身といわれてある。あれから進化してどじょうすくいがでけたと言われるんですね。ごんべが種まきゃ、かえらすがほぐじる、それを頂いた。
信心させて頂くと初めて参っても、有難い所にお引き寄せを頂いた、有り難いこれで私が助かるかも知れんというような光が見えるほどしに、喜びが頂けるもんです。必ず。
ね、お参りして来た。娘のことでお願いに来た。もう夫婦のものが一生懸命でここに膝まづいたときには、自分がいつの間にか、長年座ることもできなかった膝が付いておった。座ることがでけておった。ね、初めて夫婦でお参りをさせて頂いて、これなら私どもも助かることがでけるかも知れん、というほのかな信心の喜びを、いわば車の中でお話しして、し続けて帰らして頂いた。いまにも増した、今までにも増した痛みが襲うおて来たけれども、そのおそうて終わる頃には、自分はいつの間にか眠っておって、あくる朝までぐっすり眠っておった。体はもう爽快そのものであった。そしていつせくじゃろうか、いつ痛むじゃろうかで昨日一日過ごしたけれども、痛もうともせずにおかげを頂いたというて、昨日お礼に出てきたように、ね、信心の喜びの芽が蒔かれ、種がまかれる時にね、必ず喜びの芽が出るのです。
だからその喜びの芽が、ずっつ、何でもなしに伸びて花が咲いて、実が実るならば合楽にお参りするものはみんな、健康になって、みーんな百万長者になるでしょう、すぐに。
ところがそういうわけにはいかんのです。ね、本気で改まることを改まり、昨日ある方が、大変なおかげを頂きお礼に出てきた。もう恐れ入ってしまいますというてここに、ちょうど着いた時にです、その恐れ入った心で改まれ、と頂きましたよ。
そんなに恐れいって有難いと思うなら、さっさとお供えもしろとも仰らんし、さっさと参ってこいとも仰らん。その恐れ入った心で、今まで改まれなかったところを改まれというのです。
不思議です、有難い、または恐れいるという心なら、今まででけなかったことが、でけるのです。ね、日田のその森さんという方がです、ね、そういうおかげを心に信心の喜びの種がまかれたら、さっそく芽が出た。
そしたらもうカラスが、ほくじりに来たというのがもう今までかつてないような痛みに襲われたというのが、カラスがもうほくじりよるのです。
そこをご心願に頂きます、降りてきたカラスを、何かでカチッとこう、その、やって、カラスが倒れるところを頂きました。
ね、だから私どもが信心の喜びの芽が出たなら、それを雑草を取るとか、肥料を施すとか、またはカラスが下りてきたなら追い払うとかいう手立てというものが成されるところに、信心の稽古がいるのです。
いかにも心行、いかにも合楽の信心が完璧の域に入ったというても、ね、いよいよもって成り行きを大切にさせてもらうということも、いよいよ取り組んでみると分らんことがいっぱいなんです。
いまもちょっとこちら来たときに、こちらのやよい食堂のお父さんが、先生こういう難儀な問題ですが、も、これを成り行きとしてやっぱ頂くべきでしょうか、というわけですよ。だからね、そうね、それはね、頂くことも有り難いけれども、ね、成り行きを願いなさいて私は申しました。私でも受けられるような、成り行きに今のままじゃよろよろするごとあるから、どうぞ、成り行きが私でも受けられるようなお繰り合わせを頂くように成り行きを願いなさい、そして成り行きを頂く、そして成り行きを尊ぶていうことにならなければ、いけませんよ、と言うたことでした。
成り行きを尊ぶ、成り行きを大事にするということに取り組むと、もうそこに分らんところが出てくるんです。
ね、一切の事柄に御の字を付けなさい、これが何十年間説いてきたこと。最近では寛大の寛である。ね、宇宙のウ冠ということは天地乃親神様の働きとして、自然に見るということですから、一切のどういう難儀な問題であっても、それを神の働きとして見るというところに、その難儀な問題に対してもお礼が言えれるんだ。そこに寛大な心が段々頂ける、大きな受けものがでけるのだ。ここまでで、ま、真の信心がほんとのことのように合楽のものは思うてておったけれども、この大きな心を頂いた、けれど、大きなおかげを頂いた、けれどもまた漏っておった、というのが、合楽の今日までの信心であったように思う。表行が全廃になって、ね、形の行が全廃になって、そして心の行、心行一つに取り組ませて頂くということになった時に、初めてその大きな受けものの、いうならば、漏れておった、破れておった、ほこれておったところがきれいになっていくというのです。
私はこのことを言うようにならせて頂いて、まだ十何日かですけれども、その十何日間の間に、なら今合楽で起きておる神様の御働きというものがです、ほんとにそれはすざまじいです。
ね、そういうおかげがもうはっきり、頂けてくるようになったんです。
そこでお互いのなら長年信心しておる人達がです、いつまでたっても、いわば段々高尚になってくる、くわしゅうなってくる、言うことだけは一人前のことが言えるようになるけれども、有難いというものが抜けて、それこそ自分さえよかりゃよかごとある、それこそお神様の前にあつあつとした蒲団に寝そべって、嫁ごとやりやりやるようなことではいけない。
そういうときがです、ね、それこそ相手が楽になるように、相手が喜ぶようにといったようなちょっとした心を使うことが心行だと言われておるのですから。
それに相手がちょっともやもやするごとこう、ね、心行からぜんぜん離れてしまっておるわけです。
そして心行とは、本気でやらせて頂くと見やすいこと。
ね、やり、それこそやろうと思えば子供でも成されるような簡単なことを、おろそかにして来ておったことに気付かせて頂いてそしてあらためて心行にまた取り組ませて頂いて、取り組ませて頂くとまた、目の粗い、なら私です、昨日のね、心行が、いや十二月からでよかといったようなことがあっておるわけです。
ね、ほんとに神様がボタンいっちょおしゃ暖かになるものを、わざわざ我を張って、布団も何枚かこう着てから、重たい重たいとこう思うよりも、ほんとに暖房を入れて有難いと合掌してお礼を申し上げるほどの位神様が喜んで下さるか分らんのです。
心行とはそういう様々な生活の上にです、工夫していくと工夫もでけるし、また、当面した時にです、これはどうすることが心行であろうか、どうすることが成り行きを大事にすることであろうかと、分らないことはまた限りなく続くことだろうと思います。
ね、完璧に域に達したのではありません。完璧に域に入ったんです。
これからはこのことをです、いうならば、ね、未完成のまま永遠にこのことを続けて行こうというのが、これからの合楽の信心であります。
ね、ただ分るとこも分らずにいつまで、一生経って未完成なものは、未完成のまま永遠にというのは、こんなつまらん話はないですね。
おかげが、今申します、十日間に起きているおかげのこと、おかげを頂いて、ね、おかげを現わし、そして、いよいよ心行一筋に取り組んでいって、今合楽でお互いが信心の稽古をさせて頂いた事柄を信心の土台として、いよいよなそうと思えば子供でも成せれるようなところを御粗末にせずに、いよいよ完璧へ向かって進んで行かなければならんということでございます。どうぞ。